聖書のみことば
2022年2月
  2月6日 2月13日 2月20日 2月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

2月27日主日礼拝音声

 休みを与えられる主
2022年2月第4主日礼拝 2月27日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第6章30〜44節

<30節>さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。<31節>イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。<32節>そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。<33節>ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。<34節>イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。<35節>そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。<36節>人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」<37節>これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。<38節>イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」<39節>そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。<40節>人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。<41節>イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。<42節>すべての人が食べて満腹した。<43節>そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。<44節>パンを食べた人は男が五千人であった。

 ただいま、マルコによる福音書6章30節から44節までをご一緒にお聞きしました。
 この箇所は、「5,000人の給食」の記事ですが、今日はこの記事の前半を中心にお聞きいたします。

 まず30節と31節に「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」とあります。二人ずつ組になって主イエスから送り出された12人の使徒たちが、「イエスのところに集まって来た」と言われています。皆が再び主イエスのもとに集まっていることから、使徒たちが遣わされた働きには、あらかじめ、ある一定の伝道期間が定められていたことが分かります。その日が来て、弟子たちはそれぞれに遣わされていた土地から主イエスのもとに戻って来たのです。
 ここでは、遣わされた弟子たちが「使徒」と呼ばれています。「使徒」という言葉は、もともと「遣わされた者」という意味の言葉です。弟子たちを伝道の働きに遣わしてくださる方がおられ、遣わされて行くことによって弟子たちは「使徒」とされていきます。遣わされた使徒たちは、そのまま遣わされっ放しになるのではありません。使徒たちはその働きの期間を終えて、必ずもう一度、遣わしてくださった方、主イエス・キリストのもとに戻って来ます。
 使徒という言葉が使われていることから、伝道の働きは、遣わされた者が自分の思いつくまま好き勝手にすればよいというものではないことに気づかされます。主イエスから遣わされて使徒となった人たちは、各々遣わされた持ち場で一定期間を過ごした後、再び主イエスのもとに呼び集められます。そして、30節に記されていることですが、自分たちが遣わされて行った先でどんなことを行ったか、教えたかということを、一つ残らず報告します。
 しかしどうして、そういうことをするのでしょうか。それは恐らく、弟子たちが自分でも気がつかないうちに「主から離れてしまわないため」と思われます。使徒たちは主のもとに再び集められて、自分たちの行ったことや語ったことを振り返り、そして自分の歩み、為した業、語った言葉が、主イエスと同じであるということを確認していくのです。
 こういう作業が必要になるのは、伝道の業というものが、もともと主イエス・キリストの御業だからです。もちろん、遣わされた先で、弟子たちは一生懸命働きます。しかしその働きは、根本的にはこれが主の御業であればこそ実を結んでいくのです。弟子たちが思い思いに自分の才能や能力を開花させて見事な業績を上げるのではありません。主イエスが遣わしてくださり、その働きに主がいつも伴っていてくださる、主が共に働いてくださる、だからこそ弟子たちは慰めを与えられ勇気を与えられ、働きを続けていくことができます。主イエスという、大本におられ力を与えてくださる源から切れてしまえば、それは根を失った切り花と同じです。切り花は、どんなに美しく咲いている状況で花を切ったとしても、もはやそこから実を結ぶことはできません。遣わされた者たちは一定期間の働きの後、主イエスのもとに再び集められて、そして主イエスご自身の御言葉を聞きながら、自分たちが過ごした生活が「主によって導かれ、満たされ、支えられている生活だった」ということを確認していくのでした。

 ここでは本当に単純なことですが、「使徒たちが主イエスのもとに戻った」ということが語られています。このことを聖書から聞きながら、私たちの場合も同じではないだろうかと思わされます。
 私たちは一週間の始まりの日である日曜日に教会の礼拝に招かれ、御言葉を受け、そして与えられた御言葉を携えて、それぞれに与えられているこの世の持ち場へ散って行きます。そしてこの世で働き、共に生きる隣人たちに仕えて生活するのですが、しかし私たちは出て行ったきりになるのではありません。礼拝から遣わされ散らされていく時に、主イエスはもう一度、次の日曜日には戻ってくるようにと私たちを招いてくださっています。私たちは主の日に、主イエスの招きによってここに集められ、養われ、御言葉を持ってそれぞれの生活に出て行き、そして一週間が経つとまたこの場所に集められ、御言葉を聞くのです。
 また、ここで私たちのしていることは、ただ御言葉を聞いて聖書の知識を増しているだけではないだろうと思います。礼拝に集まる時に、私たちはそれぞれに歩むことを許された一週間の生活を携えて、集まっています。聖書の説き明かしを通して、主の御言葉に触れながら、私たちはそれぞれに自分が歩んできた一週間の生活を振り返るのです。一巡りの間に行ったこと、語ったこと、心の内に思ったこと、そういう一つ一つのことを思い返します。
 そして、そのように私たちが自分自身を振り返る時には、必ずしも良い事づくめということではないかもしれません。上手くいかなかったことや心に重く気がかりになっていることもあるかもしれません。口に出すことはなくても、そういう私たち自身を主イエスの前にお示ししながら、この礼拝の時を過ごすのではないかと思います。そして改めて私たちは、礼拝の中で、「わたしは主イエス・キリストに属する者、主の弟子である」ということを確認させていただき、新しい週の歩みへと遣わされていくのです。キリスト者の生活には、そのような一つのリズムがあります。
 一般的には、人の一生の時間というものは、長い大河の滔滔とした流れのように過ぎて行くものでしょう。けれどもキリスト者の場合には、その大河の流れの間に間に主イエスと出会う堰が設けられていて、一週間ごとに主イエスのもとに集められるのです。そしてそこで自分が過ごしてきた生活を思い返しながら、抱えている重荷、持ち切れず荷崩れしそうになっている荷物を、もう一度、主の御言葉によって整頓していただき、背負い直して、更なる一週間へと遣わされていくのです。

 多くの人に愛されている大変有名な御言葉ですが、マタイによる福音書11章28節で主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われました。私たちはこういう聖書の言葉に、本当に慰めを与えられます。けれども主イエスが「わたしの荷は軽い」とおっしゃるのは、主イエスが御自身の責任を誰かに押し付けて責任逃れをしておられるからではありません。むしろ主イエスご自身は、私たちすべての人間のために十字架に架かってくださったのですから、主イエスが負っておられる荷が軽かろうはずはないのです。それでも主イエスがこのようにおっしゃるのは、このお方が「自分は神の御支配のもとにある。神が共にいてくださり、支えてくださる」ということをよくよくご存知で、「神に信頼し、自分自身を神に委ねて歩む」、そういう生活を辿られるからこそ、負っている重荷は軽くされているのです。主イエスのなさりようは、自分の責任や重荷を軽くしようということではありません。重荷を背負っている自分が神によって覚えられ支えられ持ち運ばれている、そのことを確かに確認する中で、「わたしの荷は軽いのだから、わたしに学び、わたしと同じような軛を担うように」と、主イエスは教えてくださるのです。
 私たちは毎週の礼拝の中で、「『わたし』というものを引き受けてくださり、支え導いてくださる神が確かにおられる。神が確かにおられることを私たちに知らせるために、自ら十字架に向かって行ってくださった主イエスが共におられる」ということを、毎週聞かされます。そして、「神に信頼して生活して良いのだ」と呼びかけられ、「神を信じて生きるように」と招かれているのです。私たちは毎週教会に集って主の御言葉を聞き、「私たちを支え、持ち運び、一人一人の後ろ盾となってくださる方が確かにおられる」ということを知らされ、そのことを信じて、新たな一週間へ遣わされていきます。神が私たち一人一人の後ろ盾となってくださり、私たちの人生の裏打ちとなってくださり、ぴったりと寄り添い、どんな時も伴っていてくださいます。その神に慰められ励まされながら、私たちは自分が判断できる範囲内で正しいと思う道を歩んで生活していくのです

 さて、今日の箇所では、主のもとに招き集められた弟子たちは、しばらく休息を取るようにと主イエスから促されています。31節に「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」とあります。弟子たちの働きがどのようであったかということは、先の12節13節に「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とあり、その働きは目覚ましかったことが語られています。多くの人々に宣教し、多くの悪霊を追い出し、多くの癒しが行われました。弟子たちの働きが大変目覚ましかったので、先生である主イエスの名前が領主ヘロデの耳にまで届いたのでした。弟子たちは、自分たちが働くことで多くの人が主イエス・キリストのお名前を知るようになったのですから、これは当然嬉しかったでしょうし、気分が大変高揚していたに違いないのです。
 今日のところで弟子たちは、自分たちの行なったこと、語ったことを全て主イエスに報告したと言われていますが、その報告の際には、おそらく高ぶる気持ちを抑えることができなかっただろうと思います。彼らは口々に語りました。「私たちの働きは本当に喜ばれ、大変忙しかった。食事をとる暇もないほどだった。しかし私たちは疲れてなんかいられない。まだまだ働ける。どうかまた遣わしてください」と、喜んで主イエスの前に報告をしたに違いないのです。
 ところがそれに対して主イエスは、「しばらく休むがよい」とおっしゃいました。いささか興奮気味の弟子たちの間にあって、主イエスだけが、静かに休息することの意味、神の前に鎮まって休むことの大切さを知っておられました。ここには「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかった」と言われていますが、弟子たちに休息が必要なのは、ただ肉の糧を取るためだけではなかったはずです。弟子たちには、肉の糧だけではなくて、神の御前に鎮まって霊の糧を受け取るという時間が是非とも必要でした。そして、主イエスだけがそのことの大切さを見抜いておられました。

 私たちも、振り返ればそういうところがあるのではないかと思います。与えられているそれぞれの務めが上手くいって成功する時には、私たちは喜んで気分が高揚し、さらには有頂天になってしまいがちです。自分の行なったことや語った言葉によって収めることのできた成功にすっかり心奪われてしまい、もう一度同じようになってみたいという思いがどんどん膨らんでいきます。
 けれども、そのようになるとき、私たちはいつの間にか神から離れてしまうという危険があるのです。自分自身の信仰生活を振り返っても、思い当たることがあるかもしれないと思います。
 困難に直面して物事が上手くいかない、願ったように事が進んでいかない時には、私たちは一生懸命祈るように思います。そして「どうしてですか」と、懸命に神に御心を尋ね求めるだろうと思います。ところが、悩んでいた事柄や抱えている問題に解決が与えられて生活が順調に進み始めると、いつの間にか、その成功は自分の能力や力や努力によって成し遂げられたもののように思ってしまい、祈りから遠ざかり、神の御心を尋ね求めることが疎かになってしまうことがあるのです。ある信徒の方は、「わたしは困難な状況になると一生懸命にお祈りをするし、日曜日の礼拝説教も一言も聞き漏らすまいと懸命になって聞くけれども、困難が去り物事が上手く進み始めると、真剣でないわけではないけれど、どうも礼拝を切羽詰まった気持ちで捧げるという思いが緩んでしまう。そうするうちに、神さまはまた別の試練をお与えになり、真剣に礼拝せざるを得ない状況の中に置いてくださる。思い返せば、わたしの信仰生活はそのようにしてここまで導かれて来たのだと思います」と言われました。まさに正直な感想だと思います。私たちは皆それぞれに、このような思いをすることがあるのではないかと思います。
 主イエスは、弟子たちが忙しく慌ただしく過ごしていく中で、知らず知らずのうちに神から遠ざかってしまわないように、神の前に鎮まる休息の時をお与えになろうとするのです。
 私たちには、それぞれ神によって遣わされたこの世での働きを求められる時と、神の御前に集められ鎮まって御心を尋ね求める時と、その両方が必要だろうと思います。働く時と休む時、働きに集中する時と神さまの御前に鎮まり霊の糧に癒され養われる時というリズムの中で、信仰者は育てられていくように思います。

 しかし、そういうリズムが常に一定に刻めると決まっているわけではありません。自分としては一つのリズムの中で過ごすつもりでも、思いがけない横やりが入って、それができなくなる時もあります。ちょうど今日の箇所がそうでした。主イエスが弟子たちを伴って静かな人里離れた場所を目指して出て行かれた、その時に、そこにはなお主の救いを必要とする大勢の群衆がいて、その群集が先回りをして舟が行き着く上陸地点に集まっていたことが語られています。弟子たちとすれば、「あなたがただけで休息しなさい」と言われて出かけて行ったのですから、岸辺に大勢の群衆がひしめいているのを見て、「また働くのか」と思って内心穏やかではなかったかもしれません。
 けれども、主イエスは違います。主の助けを必要とする人たちが、飼い主のいない羊のように疲れを覚え飢えている様子をご覧になって、深く憐れんでくださいます。34節に「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とあります。
 「飼い主のいない羊」というのは、旧約聖書の中で、神と神の民イスラエルの間柄を、羊飼いと羊に譬えているところから出てくる表現です。飼い主である神を見失って、あるいは神から見捨てられたと思い込んで、自分が歩んでいく目当てが分からなくなり疲れ切っている人々の様子が「飼い主のいない羊」と言い表されます。神のことが半ば分からなくなっている、神が見えなくなりつつあるのですから、こういう人たちは、優等生のように礼拝に集って明るい顔で神を讃えることはなかなかできない人たちです。「今は人生の中で抱えている悲しみや挫折のために顔が暗くなっているかもしれないけれど、それでも慈しみの神があなたの上におられるのだ」という話を聞かされても、すぐにその話に心を開き、喜んで神を賛美するという気持ちにはなれないかもしれないのです。
 けれども主イエスは、そのように大変素朴な仕方で自分の人生の苦しみや嘆きを表している人たちのことを、冷淡に突き放したりはなさいません。むしろそういう人たちを本当に深く憐れんで、愛し、様々に語って、何とか人生の重荷を軽くしてあげようと働きかけてくださいます。主イエスの軛を共に負って、人生の重荷を軽くすることができるように、主イエスはいろいろな仕方で語りかけてくださるのです。
 そして、そのように働いてくださる主イエスの姿に触れる中で、弟子たちこそが最も、癒され慰められ生きる力を回復されていくことになります。それは、弟子たちもやはり同じように、様々な悲しみや嘆きを抱えて疲れているからです。

 今日の箇所は、主イエスが弟子たちに「休むように」と促している数少ない、とても珍しい記事だと言われることがあります。確かに、マルコによる福音書で主イエスが弟子たちに「休みなさい」とおっしゃっているのは、この箇所だけです。主イエスご自身は休んでおられたかといえば、片時も休んでおられません。主イエスは、ご自身が弟子たちと一緒にいることができる地上の時間に限りがあることご存知です。そうだからこそ、いつも忙しく働いておられました。
 しかし、主イエスがそのように休みなく働いておられるからといって、弟子たちも同じようなペースで働くことはできないことを、主イエスはよくご存知なのです。むしろ弟子たちは、主のもとに呼び集められ、御言葉によって疲れや破れを癒され、破れている自分を繕っていただいて、もう一度新しい歩みへと遣わされていくのです。

 私たちにとっては、この礼拝の時を初めとして、聖書を通して神の御言葉に触れる生活の中で、癒され繕われ、養われていく生活が与えられます。
 主イエスは飼う者のいない羊のような者たちだけではなくて、ここにいる私たちも深く愛して、仕えてくださるのです。そのような主イエスの御言葉に癒され慰められ、勇気と力を与えられながら、私たちはそれぞれの生活へと向かっていきます。

 ですから、キリスト者の生活は自分の努力によって為したと高ぶるものではありません。神の恵みとして与えられ、神の慈しみを受ける中で、私たちはそれぞれの人生の荷を軽くされ、慰めを与えられ、勇気を与えられて歩むように導かれています。
 そのような一巡りの生活へと、ここからまた遣わされていきたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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